広島の牡蠣のことを知ってから広島の牡蠣を食べる
牡蠣というものがある。柿ではなく牡蠣であり、火器ではなく牡蠣だ。海のバーターとも言われ、英語ではオイスターと呼ばれる。世界中で食べられており、日本でも牡蠣の養殖は盛んに行われている。
2018年のデータを見ると牡蠣の生産量は広島が1位だ。日本で生産される牡蠣の半数以上が広島となっている。つまり広島は牡蠣の国なのだ。ただ我々は広島の牡蠣のことを知って食べているだろうか。ただ漠然と食べてはダメなのだ。広島の牡蠣のこと知ってから牡蠣を食べたいと思う。
牡蠣を知るということ
広島と言えば牡蠣である。今もだけれど、古くから日本の牡蠣生産量の50%以上が広島という状況だ。昭和40年代には70%が広島という記録もある。ただ我々は広島の牡蠣の何を知っているのだろうか。
私は牡蠣が大好きだ。生牡蠣を1度に20個も食べるほど好きだ。濃厚な味わいと濃厚な味わい、あと濃厚な味わいがとにかく好きなのだ。焼き牡蠣も好きで、牡蠣小屋に行くこともある。それは牡蠣の濃厚な味わいと濃厚な味わい、あと濃厚な味わいがとにかく好きだからだ。
広島では古くから牡蠣が食べられていた。縄文時代の遺跡「比治山貝塚」から牡蠣殻が見つかっている。弥生時代の遺跡からも多くの牡蠣殻が見つかっている。今もそうだけど、昔の人も牡蠣を美味しいと思ったのだ。
その頃の牡蠣は養殖ではなく、天然の牡蠣を収穫していた。今の牡蠣は養殖なのだけれど、牡蠣の養殖がいつから始まったかは定かではない。口伝えで伝承された記録は1924年に発行された「草津案内」で知ることができる。
それによれば、天文年間(1532年-1555年)に養殖方法が発明されたとある。他にもいろいろな伝承があるが、江戸時代初期には養殖が始まっている。竹や木、石などに牡蠣がついていることをヒントに養殖法を思いついたようだ。
その頃の養殖法は、竹を枝付きのまま5尺ほどに切り、干潟に立てるというものだった。広島には素晴らしき干潟があった。干潟が当時の牡蠣養殖では重要だったのだ。
広島湾に流れ込む太田川が上流から土砂を運び、また広島湾は干満差が大きいため広い干潟を形成する。さらに広島湾に流れ込む川が、山から多くの栄養分を運び、植物プランクトンを発生させる。これを牡蠣が食べるわけだ。広島は牡蠣に向いた地形だったわけだ。
いろいろな養殖方法
牡蠣の養殖方法はいくつかある。今ではほぼ見ることが難しくなった養殖法もあるが、牡蠣の歴史を知る上では必要だろう。ここではそれを説明する。私が本気で描いた絵でどのようなものかわかるはずだ。絵が下手だ、は言わないでください。気がついてはいるので。
竹などを干潟に立てる養殖方法を「ひび立て養殖法」と言う。大潮の干潮時に干潟に枝のついた竹や木(これを「ひび」と言う)を立て、牡蠣の幼生を付着させる。ある程度成長するとひびから牡蠣を取り、地蒔き(干潟に置いて成長させる)する。
この方法は江戸時代から昭和初期まで使われた現状ではもっとも長く使われた牡蠣の養殖法となる。ただ現在では生産性が低いことなどで次第に減少して、漁業・養殖業生産統計年報にも記載がなくなっている。
1926年に実験が行われ、昭和初期から急速に広まり、一時期は牡蠣養殖の中心となったのが「簡易垂下養殖法」。干潟に松や竹などを杭として打ち、その上に杉や竹を通して棚を作る。そこにビニール管などを吊り下げ、牡蠣を育成する方法だ。
海面を立体的に使えるので、生産量が増えた。ただひび立て養殖法もそうだけれど、作業が干潮時しかできないという問題点がある。収穫時期の冬は夜間の干潮時の方が潮がよく引くため、夜間に作業が行われた。冬の夜の海、とんでもなく大変な作業だったことが想像できる。
簡易垂下養殖法と同じ頃に成立した「筏式垂下養殖法」。しかし、当初は筏や動力船などへの投資、日本軍による海域の規制などで普及しなかった方法だ。昭和20年代に入ると普及し始め、昭和40年代に入ると、ひび立て養殖法はほぼ消滅し、簡易垂下養殖法も減少し、筏式垂下養殖法が主流になる。今も使われているのがこの方法である。
海上に筏を浮かべ、そこに牡蠣を吊るして育成する。干潟を利用する必要がないため、養殖面積が増え、また干潮時に作業する必要もないので、夜間の作業から解放されることになった。
広島で海を見ていると筏式垂下養殖法を目にすることができる。海上に筏が浮いているのがわかるのだ。宮島に行く船からもよく見える。我々が食べる広島の牡蠣は筏の下に連なっているのだ。
牡蠣船
広島の牡蠣で語らなければいけないのは「牡蠣船」の存在だろう。江戸時代前期に草津(もちろん広島の草津です)の牡蠣生産者が牡蠣を大阪へと運び販売したのが始まりとされる。その後、草津以外でも牡蠣船を導入して、牡蠣船は活発となる。
牡蠣船は45トンほどの船で牡蠣を積み、10月頃に出発して、11月頃から2月頃まで大阪などで牡蠣を売った。1708年に大阪で大火災が起きた時は、町奉行所の高札を牡蠣船に持ち込み、消失から救って、草津の牡蠣船は大阪市中の橋下で自由に商いをすることが許された。
当初は牡蠣を運び売るだけだった牡蠣船だけれど、やがて船上の帆を倒して屋形を乗せて牡蠣料理を出し始める。牡蠣飯、焼き牡蠣、酢牡蠣などを出し、大阪の名所になるほどだった。明治になると一年中停泊する船も現れ、カキフライも登場し、人気を博したそうだ。
大正時代になると汽船を使うようになり、昭和に入るとむき身を鉄道で運んだ。やがて輸送機関の発達、卸小売の流通の整備などが行われ、河川改修の影響もあり、第二次世界大戦後は、輸送も含め牡蠣船は姿を消すことになる。
さぁ、食べよう!
つまり広島の牡蠣は歴史があり、美味しいと言うことだ。昔から多くの人が広島の牡蠣を食べてきたのだ。それはなぜか、美味しいからだ。美しい瀬戸内海に浮かぶ牡蠣筏を見ると、美味しいだろうなと想像がつく。
知識は最高の調味料なのだ。広島の牡蠣について知ることで、牡蠣はもっと美味しくなるのだ。こういう歴史・文化があり、こういう背景があり、いま私の口に入らんとす。これがより一層牡蠣を美味しくするのだ。
広島の牡蠣を食べようということで、新天地にある「かめ福」を訪れた。10年ほど前にオープンしたお店で、尾道で六種類の穀物を使って育てた「ロック豚」や、広島を代表する「広島牛」、活魚は瀬戸内海産と広島を代表する食材が集結するお店だ。地酒も豊富で、ここにくれば広島の地酒はだいたい飲めてしまう。つまり広島産の牡蠣もあるということ。
美しい。輝いて見える。いや、実際に燦然と輝いているのだ。我々は縄文時代からの広島での牡蠣の歴史を学んだのだ。美味しくないはずがない。ひび立て養殖法の時代もあった、牡蠣船は海上を走った。そんな歴史の結晶がこの牡蠣なのだ。そう考えると美味しさが増した気がするでしょ。
牡蠣だけでもよかったけれど、瀬戸内海も見ていたので、カワハギも頼んだ。生簀で泳いでいたものをすくい、慣れた手つきでさばかれていく。カウンターでは、料理人さんが捌く様子が見える。
早速食べようではないか。まずは牡蠣だ。焼き牡蠣。食べる前から美味しい、と言ってしまっていいかもしれない。だって絶対に美味しいもん。それは間違いではなく、実際に食べたら、やっぱり濃厚で美味しかった。濃厚は正義なのだ。
広島の牡蠣を食べることができた喜び。牡蠣筏も見たし、知ってから食べると美味しいのだ。もちろん知らずに食べても美味しいけどね。どちらにしろ美味しいのだけれど、旨みが0.01グラムくらい増す気がするのだ。
子供の頃からカワハギを美味しいと感じるおつな子供だったのだけれど、大人になった今もやっぱり美味しい。肝がまたいいのです。さっきまで生簀で泳いでいたので新鮮。日本酒ともよく合う。幸せとはこのようなことだと思う。
知ってから食べると0.01グラム
ということで、広島の牡蠣のことを学び、牡蠣を食べた。美味しかった。とても美味しかった。歴史を知ることで広島の牡蠣が美味しい理由もわかるので、美味しさは増すしか選択肢がない。その増し度は0.01グラムだけれど、それでいいではないか。だって美味しいんだもん。濃厚なんだもん。
かめ福
住所:広島県広島市中区新天地1-9 新天地レジャービル2F
電話:050-5597-9912
参考文献
「干潟の恵み〜カキとノリの物語〜」 広島市郷土資料館 2013
「瀬戸内海事典」北川建次 関太郎 高橋衞 印南敏秀 佐竹昭 町博光 三浦正幸 南々社 2007